2025年10月24日
9月のある日
9月20日(土)、所用で中山競馬場に行く。メインとする仕事は昼前に終了し、ゴンドラ席から1階の一般フロアに降りた。若い競馬ファンが本当に多くなったことを実感する。グループで集う若者、カップル、子供を連れた若い家族など……。競馬産業全体が不況にあえいでいた2000年代半ばなどは、ファンの高齢化が本当に目立っていて、この業界の前途にぼんやりとした不安を感じていたのがウソのようだ。仕事が一段落したこともあって、フードコーナーで注文したホルモンライスが五臓六腑に染み渡り、実にうまい! 中山競馬場の土曜日は、人いきれや食べ物屋での行列に悩まされることもなく、本当に心地良かった。
帰りは、船橋法典駅までの地下通路を歩いて駅に向かった。学生時代に歩いたはずの「おけら街道」は過去のものとなったのだろうか。住宅にぐるり囲まれた現在の競馬場では、かつて私が歩いたルートを全く思い出せない。
その地下通路の、駅に向かう私から見て右側には、歴代皐月賞馬の巨大写真が展示されている。競馬場に近いほど年代が新しいので、過去の名馬を遡っていく形で一枚一枚を眺めているうちに、なんだか自分の人生を遡るような不思議な感覚にとらわれた。
ジャスティンミラノ(24年)、アルアイン(17年)、ヴィクトワールピサ(10年)、アンライバルド(09年)、エアシャカール(00年)。彼らは勤務先の種馬場ブリーダーズ・スタリオン・ステーションの、現在あるいはかつての繋養馬たちだ。エアシャカールは、初年度11頭の配合を行ったのみで命を落とした。彼の皐月賞優勝から25年が経過していることに気づき、思わず当時の私の年齢を計算してしまう。当種馬場での皐月賞勝ち馬の繋養は、本馬も入れて5頭だったことを改めて知る。
1995年のジェニュインは、生産界にとって時代を変えた皐月賞馬と言えるのではないだろうか。本馬が大種牡馬サンデーサイレンスの初年度産駒かつクラシック優勝馬第1号なのだから。その前年94年の優勝馬がナリタブライアンであることも象徴的だ。日高の至宝ブライアンズタイムが生んだ最高傑作であり、ナリタブライアンの早世とその数年後に起きる生産牧場の倒産は、これも時代の転換点での出来事だった。
パネルは、年を遡るとデジタルからフィルムあるいは複写データの引き伸ばしになり画像が荒くなっていくのだが、自分の若いころに戻っていく形でもあり、記憶は今以上に鮮明だ。ミホノブルボン(92年)、ヤエノムテキ(88年)……競馬の売り上げが絶頂期を迎えつつあったころの競走馬たち。ミホノブルボンの三冠を阻止したのがライスシャワー、ヤエノムテキの世代にオグリキャップやスーパークリークがいて……などなど、当時がはっきりとした輪郭をもって蘇る。競馬が大変面白く盛り上がった時代だった。
86年のダイナコスモスが、私が初めて生観戦した皐月賞の勝ち馬。この年のダービー馬ダイナガリバーを学生寮の仲間たちと府中で応援したのは、今から39年前だった。そして自分を競馬に目覚めさせたシンボリルドルフ(84年)とミスターシービー(83年)。ここまで見ていて胸いっぱいになった。遡ること40年余り、競馬は大変な隆盛を極めながら、現在も多くのファンを魅了し続けている。私も大変幸いなことに一つ同じところで馬産地とのかかわりを持ちながら仕事を続けている。はるかな昔、中山のおけら街道沿いにあった一杯飲み屋で競馬談義をしていた私が今ここにいて、42年前の皐月賞馬ミスターシービーのパネルを見つめている……。
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9月30日(火)は、受胎条件種付料の支払い期日。勤務先の(株)サラブレッド・ブリーダーズ・クラブの口座には、朝から多数の入金報告があり、馬主様、生産者様からのお振込みが終日途切れることはなかった。そんな中で、種付料の請求書がまだ手元に届いていないとお叱りの電話をいただいた。「月末払うつもりなのに請求書が届いていないけど、どうするんだ!」と電話の向こうで怒気を含んだ馬主様からの電話。最近の郵便事情で、土日は普通郵便の配達業務が止まるようで、本州方面に郵便物が届くまでには、おおむね5日はかかるようだ。当方は平身低頭で、まずはファクスやメールで請求書を送信することとなるが、よくよく考えてみれば支払いたいのに支払えないというクレームなのだから、本当にお客様は神様である。心底有り難いことだと思う。
長いデフレから脱却しつつある日本経済だが、それこそ10年前から上昇傾向にある馬産地は、今まさにピークにあると言っても過言ではないだろう。バブルの崩壊、地方競馬の相次ぐ廃止、リーマンショック、生産牧場の廃業……。山あり谷ありの過ぎ去りし年月ではあるが、現状の好景気に慢心しては足をすくわれるだろう。将来を予測し今から地道な手当てを行い、昨日よりは今日、今日より明日と、少しでも成長できるように前に進んでいきたいと思う。